LOGISTICS FRONTIER INTERVIEWS
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特別取材・前編 渡辺景吾さん

渡辺景吾の半生:物流との出会いと「もう一つの港」への挑戦

略歴

長野県上田市で生まれ、高校まで神奈川県横浜市で育つ。明治大学商学部に進学し、卒業後はシベリア鉄道輸送を担うジューロ・コンテナ・トランスポート社に入社。その後、同社社員とマルティモダール株式会社を設立。数年後にはオランダの物流会社と西濃運輸の合弁会社のセイノーボテイナー株式会社(現:セイノーロジックス株式会社)を設立。2010年には西濃運輸の取締役や西濃シェンカー株式会社の副社長に就任され、現在も神奈川県でいげ皿の収集や奈良大学の文化財学科にて学芸員の道を目指すなど、仕事を引退された後も人生の楽しみを追求し、精力的に日々活動している。

記事概要

本記事の前編では、渡辺さんが歩んできた物流一筋のキャリアの中でも会社を立ち上げた挑戦のエピソードや立ちはだかった壁について、記しています。大学卒業後、SLB(シベリア鉄道輸送)を担う会社からキャリアをスタートさせた渡辺さんの壮絶で濃密な半生を振り返っていただき、海上混載輸送のパイオニアにいかにして成ったのかお話していただきました。
後編では、日本物流の課題や若い世代へのアドバイスをインタビュー形式で記しています。

物流との出会い:シベリア鉄道のロマンに魅せられて

渡辺氏が物流の世界に飛び込んだきっかけは、知人の紹介という偶然のものだったという。当時オーストラリアのカンタス航空から内定をもらっていたものの、社内トラブルにより自宅待機に。そこで知人から「シベリア鉄道を使って輸送をする会社がもうすぐ上場するから来ないか」と言われ、風変わりな事業内容に最初は戸惑ったものの、入社をする。そして、入社後勉強を重ねるうちにその面白さに取り込まれていった。

大学卒業後に入社し、キャリアの原点となったジューロ・コンテナ・トランスポート社では、横浜港からソ連(当時)のナホトカを経由し、鉄道で広大なロシア大陸を越えてヨーロッパのドアまで荷物を届ける「スルーBL※1」の仕組みを学んだ。パソコンもない時代、テレックスで当時のソ連側とやり取りし、列車がどこを通っているかも分からないような不透明でリスクの高い状況下で世界の果てまでモノを動かす事業に、渡辺氏は大きなロマンを感じる。

企業成長のために何とか顧客を獲得しなければいけないなか、渡辺氏の顧客開拓における行動力は目を見張るものであった。営業行脚では、当時誰も見向きもしなかったおもちゃ業界に目をつけ、蔵前近辺の零細企業を年間500件以上、計1000社近く回った。大雪の日でも出向き、顧客先を回る。プラモデル大手のタミヤ模型に目をつけ、横浜から静岡までタクシーで片道2万円かけて通った日々もあった。気づけば、担当者と一緒になってラジコンレースを楽しみながら信頼を築いたエピソードは、彼の人柄の良さがみえると同時に「現場に入り込む」営業スタイルの原点と言えよう。

結果、渡辺氏を信頼した企業が荷物を預け、当時シベリア鉄道を利用した日本からの月間輸送量のコンテナ1500本あるなかで、うち200本が渡辺氏のその後も三菱商事や日商岩井など名だたる企業が渡辺氏の元を訪れるようになった。これがまだ26歳の時の話である。

※1 スルーBL(通し船荷証券):複数の運送業者を利用する際に、最初の運送業者が発行する運送契約の証拠、貨物受領の証明、所有権を示す有価証券、貨物の引き取り証明書の役割を持つ単一の船荷証券のこと。最初の運送人が全区間の手配および責任を受け持つため、荷主の手間が省けるメリットがある。

覚悟と障壁:土下座から始まったセイノーロジックス

その後、26歳で上司のクリス氏と共にマルティモーダル株式会社(MMI)を設立した。約5年を共にしたが、やがて企業としての方向性にクリス氏とズレが生じた。クリス氏がイラン向け輸送で巨益を得ようとしている中で、渡辺氏は「もっと面白い挑戦をしたい」と思うようになった。家族ぐるみで親交があったクリス氏を裏切るような形となるため葛藤したが、離脱を決意した。当時代理店※2として関わりがあり、世界に拠点を持っていたオランダの巨大物流企業のロイヤル・ヴァン・オメレン社に入社し、いきなり日本代表に抜擢された。

もっと大きな挑戦をと思い、1年経過後自社を巻き込み、日本からの新しい国際物流ビジネスを考えた。日本のモノを世界へ動かすためには日本国内の物流企業との連携も必要不可欠だった。そこで、海外での基盤を持っていなかった西濃運輸に目をつけた。自らの理想とする物流を追求するため、渡辺氏は大手・西濃運輸に対し、手紙を送りつけたが、相手にしてもらえない。渡辺氏の手紙の内容を見た社員は、西濃運輸グループの1社で海外とのやり取りが唯一ある西濃コスモを窓口にした。何度も送り続けていたところ、西濃コスモの社長が「一度会ってみよう」と興味を持ったことで西濃グループとの面会のチャンスを得た。そこで、社長が渡辺氏が自分の息子に似ていると感じるようになり、西濃運輸グループの会長である、田口利夫氏に面談の話をつけてくれた。

東京本社で行われた面会。当時の田口社長は、物流業界ではいわば天皇陛下のような存在であった。社長のみならず、重役たちが多く並び、渡辺氏に視線が集まる心臓が割けるような緊張感がある一室。渡辺氏の話を聞き、田口社長が拒絶の言葉を発すると察した瞬間、生まれて初めての土下座をして「自分を信じてくれ」と熱意を伝えた。その結果、田口社長は「人生で初めて土下座をされた。少し考えよう。」となった。このなりふり構わぬ覚悟が社長の心を動かし、ここでロイヤル・ヴァン・オメレン社と西濃運輸の合弁会社であるセイノーボテイナー(現セイノーロジックス)の歴史が始まった。

※2 代理店:特定の国や地域において荷物の手配、受け取り、現地での実務を代行するパートナー企業

信頼と逆転:冷遇を溶かした真摯な姿と、世界へのルート開拓

しかし、スタートは順風満帆ではなかった。当初は西濃運輸のグループ会社のオフィスの角に机を置き、日差しが良く入り込む、本当の「窓際」からのスタートだった。オフィス内では煙たがられ、コピー機すら夜7時以降しか使わせてもらえないような冷遇を受けた。業績自体は渡辺氏を信頼してくれていた顧客がいたため、黒字であったが、当時はオフィス利用料や機材使用料などを言い分に利益を抑えられてしまっていた。渡辺氏を信じてついてきてくれた2名の従業員の生活、家族を考え、渡辺氏は持ち家を担保に入れ、銀行から金を借り、部下の給料を払いつづけた。

やがて、真面目に働く彼らの姿を見て、西濃コスモの社員たちも徐々に同情し、助けてくれるようになった。渡辺氏を高く評価していた田口社長の計らいで東京・北品川にあるトラックセンターの2階にオフィスを構えることができた。

奇策と躍進:トラックの助手席も使った年商30億への疾走

拠点も設けることができ、会社は軌道に乗り始めた。提携していたボテイナー社の世界的ネットワークから、日本向けの輸入貨物が一挙に渡辺氏の元へ舞い込んできた。これまでバラバラだった代理店業務が渡辺氏の会社に一本化されたことで、何もしなくても世界中から到着案内(アライバルノーティス)の作成依頼が殺到し、パニックになるほどの忙しさに。しかし、輸入だけ基盤を固めても、空コンテナを海外に輸送しなければならないため、渡辺氏は独自の輸出ルートも切り拓くことにした。

輸出ルート開拓の最初の大きな突破口は、香港向けのいすゞ自動車のトラック輸送であった。トラックの空きスペースや助手席にコンテナ1本に満たない小口貨物を積み込むことをいすゞ自動車に打診したところ、許可が下り、独自の混載(LCL)ノウハウを積み上げていった。香港を皮切りに、シンガポール、ドイツ、アメリカへとネットワークを広げ、わずか4〜5年で年商は30億円規模にまで急成長した。

渡辺氏は、誰も手をつけていなかった化学品の「液体タンクコンテナ輸送」にも着目した。自ら南アフリカで専用タンクを設計・発注するほどのこだわりを見せ、この事業は会社の利益の半分を稼ぎ出すまでの柱に成長した。

決断と突破:常識を疑い、道を拓いた「もう一つの港」への挑戦

渡辺氏は、日本の港の推進不足(大型船が入港できない問題)をいち早く予見し、韓国の釜山港をハブとして利用する戦略を打ち出す。周囲からは「なぜ韓国なのか」と反対もあったが、日本の物流を止めないためのこの決断が、現在のセイノーロジックスの強固な基盤を作り上げたのだ。

その後も様々な外的要因に左右されながらも、セイノーロジックスは海外混載事業の代表的な会社となり、今日も日本と海外を物流で支える架け橋となっている。土下座と冷遇から始まった挑戦は、渡辺氏の「社員の生活を守る」という確固たる覚悟と、不屈の実行力によって、日本を代表する海上混載のパイオニアへと結実していった。